カテゴリー「希望」の記事

2010年10月 8日 (金曜日)

佐藤泰志『海炭市叙景』(小学館文庫)緊急入手!

ャタ━ヾ(●゚∀゚●)ノ━!!
佐藤泰志の小説『海炭市叙景』買っちゃったー!
みんなも急いで本屋さんにレッツラゴー!

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━■文庫より■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 海に囲まれた地方都市「海炭市」に生きる「普通のひとびと」たちが織りなす十八の人生。炭坑を解雇された青年とその妹、首都から故郷に戻った若夫婦、家庭に問題を抱えるガス店の若社長、あと二年で定年を迎える路面電車運転手、職業訓練校に通う中年男、競馬にいれこむサラリーマン、妻との不和に悩むプラネタリウム職員、海炭市の別荘に滞在する青年…。季節は冬、春、夏。北国の雪、風、淡い光、海の匂いと共に淡々と綴られる、ひとびとの悩み、苦しみ、悲しみ、喜び、絶望そして希望。才能を高く評価されながら自死を遂げた作家の幻の遺作が、待望の文庫化。
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佐藤泰志(さとう やすし)
小説家。一九四九年北海道函館市生。
國學院大學哲学科卒。八一年「きみの鳥はうたえる」が第八六回芥川賞候補となる。以後、八八回、八九回、九〇回、九三回の芥川賞候補作に選ばれる。九〇年一〇月一〇日自殺。享年四一。著『きみの鳥はうたえる』『そこのみにて光輝く』『黄金の服』『移動動物園』『大きなハードルと小さなハードル』『海炭市叙景』。
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『海に囲まれた/小さな町で育まれる/ひとびとの/絶望と希望。』
12月上旬公開映画原作(東京・ユーロスペース、以降全国順次公開)
出演 加瀬亮 谷村美月 小林薫 他
第23回東京国際映画祭コンペティション正式出品作
(C)2010 佐藤泰志/映画「海炭市叙景」製作委員会

海炭市叙景
監督 熊切和嘉
原作 佐藤泰志
音楽 ジム・オルーク
製作 映画「海炭市叙景」製作実行委員会
11月27日〜函館・札幌・帯広・苫小牧・室蘭・北見・浦川で先行上映
12月上旬〜東京渋谷・ユーロスペース
以降全国で順次公開予定
(帯より)
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2010年5月16日 (日曜日)

寄付プログラム「第一回路上文学賞」受賞作品の発表

寄付プログラム「第一回路上文学賞」受賞作品の発表
http://www.bigissue.or.jp/activity/info_10051401.html

「路上文学賞」は全国の路上生活者を対象にした文学賞です。写真集『STREET PEOPLE—路上を生きる85人』の印税をご寄付いただき誕生しました。第1回から沢山の方に応募いただきました。選者は作家の星野智幸さんです。

【文学部門】
(1)正賞 : Oさん 「ココロ/キセキ」
(2)副賞 : Mさん 「3度の殺人事件により守られた神に選ばれた男」
(3)特別賞 : Iさん 「私が桜だったら」

【川柳部門】
(1)正賞 : Mさん
(2)副賞 : Iさん
(3)特別賞(3名) : Hさん、Swさん、kさん、Sさん

【路上雨宿り賞 (5名)(仮称=審査員特別賞)】
Hさん、Tさん、Mさん、Tnさん、Kさん

★ 応募いただいた全作品を小冊子にまとめて配布する予定です
★ 賞金の授与の日時は追ってお知らせいたします

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2010年4月 5日 (月曜日)

IN THE SPACE

 ツイッターをやっている。少し前までは「ノーリスト・ノーフォローでどこまでやれるか挑戦する」なんてやっていたけど、どうもそんなのは無意味のようだ。
 始めた頃は、小説を書いている関係で「孤独な部屋より人間の内面をどこまで掘り下げることができるか」などと純文学みたいな、まるで犬も喰わないクダラナイことばかり考えていたが、しかしいまは違う。
 あることで気持ちが吹っ切れてからは世界がまるで違ったものに見えてきた。今年に入ってから自分の中で大きな変化が起こったんだ。
 人と人がオープンに交わらずして何のためのネットだという思いがあって、だから「人と人のあいだを《人間》というのですねぇホラ、そこ! 先生の話をちゃんと聞きなさいよぉ、このバカ珍がァ!」
 おそらく、金八先生も同じことを言うだろう。
 そしてそれは、間違った考え方ではないと思う。

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2010年3月20日 (土曜日)

スーパーオタクヒキニートのためのエチュード

 経済成長を優先させたこれまでの日本社会は、効率的速さと量的多さといった価値を尺度に「拡大、前進、上昇」する事を重視し、そのため“企業戦士”なる男性がビジネスシーンで狩猟性や攻撃性を発揮する事で活性化できた社会だった。その事の弊害は別問題としても、現在のように経済的な成長を目的としない社会の到来で必要とされるのは、その「拡大、前進、上昇」的価値観から敢えて離脱する事に他ない。「経済成長を前提としない社会などオマエが勝手に決めるな」とお思いの人もいるだろうけど、実は時代はすでに移行していて、例えば少子化がその一例といえる。
 少子化を克服のため、社会進出を始めた女性の職場環境の改善等を試みてもあまり効果はないだろう。そもそも一個体としてのヒトの存在性とは遺伝子情報を後世に繋げるための一通過点に過ぎないわけで(その意味で名士として自ら「銅像」を残したがるヤツなんざロクでもない「俗物」といえる)、遺伝子情報「ワタシ」が「種」を残す以前に“個として在る事の充実”に重きを置くライフスタイルの変化を受容しうる民主主義を選択した先進国で少子化問題が共通するのは首肯ける。それと同時に、他の動物と比較してヒトの老後は非常に長いが、これは否が応でも個としての在り方が問われる必然をはらんだ問題でもある。ここでの「老後」とは子育てを終えた以降を指すが、二十歳を迎えたヒトが成人として認知されるシステムに則した場合、二十五歳で子供をつくったヒトは四十五歳にして晩年(余生)となるわけで、もっとも「まだ住宅ローンが残ってる」といってもそれはヒトの生死を離れた副次的な問題に過ぎず、マイホームを建てなければヒトは生きていけないわけでもない。何も「四十五歳で死ね」といってるわけではない。もし長生きに興味があるなら、あとは個人の裁量で社会のシステムに準拠しつつ「個の在り方」を模索しながら生涯学習するもよし、年金を握りしめた先の風俗で性の残り火を燃焼させるもよし、個人的な趣味の世界を更に探求するもよし、長生きを以って美徳とする価値観の共済圏ともいえる老後福祉政策とはそうしたコミューンの形成を築く、まさに今日的な課題なのだろう。
 すでに人口減退期にはいった日本。生産力の縮小は国力の衰退に直結するわけで、それを補うために第三国から構造難民を積極的に招いて労働力に宛てがう一方、一部の資本家が上前をはねる「あなた作る人、僕たべる人」方式に不満を持つことでオルグされた難民が暴徒化する社会、弛緩した日本経済にクリティカルブローを与える事でこの国の経済はその息の根を止め、さらに悪貨が良貨を駆逐する犯罪の増加も手伝い、日本が三流国家に転落するのが西暦201X年——。
 最後はフィクション混じりだけど、なんだかお先真っ暗でユウウツな気分になってくる。しかし、ここで求められるのが価値観の転換だ。「スローライフ」とやらもその一つだろう。
 経済成長型社会に対する定常型社会で必要なのは、前述の「拡大、前進、上昇」に価値を置く社会から自覚的に降りることで、これは昨今のフリーターやニート、さらに引き籠りともリンクする問題だ。「拡大、前進、上昇」しない彼らが選んだ道こそが「深く掘り下げる」ことだった。それに併せて、全共闘の勝ち組という意味で胡散臭い糸井重里のコピー『おいしい生活』(1982年 西武百貨店)が牽引する時代が培養土となった、70年代後半に蒔かれたオタクの種子は俯き加減のまま『元気よく地下深く』(2007年 てっちくん)根を伸ばすことで今日に至る。
 70年代後半のミュージックシーンではNWOBHM(ニュー・ウェーブ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)が叫ばれた。読み方は誰も知らない。これになぞらえて10年代の日本における彼らをNOHNS(ニュー・オタク・ヒキ・ニート・スイーツ)と呼ぶことは可能だろうか。
 ……おかしなブログだねぇ、いつも。ウソ臭いし。最後まで読んで損した気になるでしょう。

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2009年7月23日 (木曜日)

トムラウシ、土石流、皆既日食

 標高二千メートル、気温四度、瞬間風速二十五メートル、横殴りの雨と、湖の水が飛沫を上げて叩きつける山道(さんどう)に避難小屋は遙か遠く、暴風雨の中、体力を消耗して動けなくなった者が出始め、四派に裂かれたパーティは、漆黒の泥土に脚を取られた。
 先頭グループは、後続が追いつくまでずぶ濡れの着衣のまま、風雨に耐えて立ちつくす。一時間が経過した頃、もっとも多くの凍死者を出した先頭グループのなかで、のちに生還者の一人となる男性がガイドに決断を迫った。
「これは遭難だ!」
 アイヌは大雪山を「カムイミンタラ」と呼ぶ。神々の遊ぶ庭を意味するという。そんな美しい花が咲き誇る神の庭も、人間にはスケールが大きすぎることもある──。
 山口県地方の集中豪雨で発生した土石流は、特別養護老人ホームへとなだれ込んだ。食事を終えた直後の入居者は一瞬にして飲み込まれ、救助隊の捜索も難航を極める。ニュース映像では、室内に打ち寄せた泥の海から、毛布の端と、車いすの取っ手が見えていた──。
 日食は「魔神が太陽を飲み込み、吐き出すために起きる」そんなヒンドゥー教の神話があるという。インドでは、胎児に悪影響があるので妊婦は室内にとどまるよう忠告された、との報道もあった(英BBC電子版)。
 日本では、それぞれの記念に歴史的な皆既日食を拝もうと、各地域で大勢の人がその時を待っていた。太平洋上のツアーに参加した新婚カップルにも、マスコミがマイクを向けてコメントを求めた。その一方で、絶好の観測スポットで待機していたところ、あいにくの曇天に肩すかしを食らった人たちもいた。同じときにモンキーセンターの猿たちは、就寝の時間と間違えて合図の鳴き声を上げる。
 46年振りの天体ショー。喜び、笑い、悔やんで、泣いて、歌って、踊って、怒って、恐れて、人間の都合などお構いなしに、自然はその野蛮なほど偉大な姿を時に刻み続ける。取るに足りない、ちっぽけで、愛すべき人間たちは、力強く今日という日を生きただろうか。そして自分は?
 次に国内で見られる皆既日食は、26年後だという。日時なら割りだせる人間の叡智。2035年9月へ向けて、そして人類の未来のために、部屋の中から、ささやかに献杯──。
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2009年7月15日 (水曜日)

文学というパララックス 〜第141回芥川賞、直木賞、決定!

 積ん読書が増えて困った。そのくせここ数年、新しい文芸誌を手に取ったこともない偏読ぶり。
 文学の歴史をたどる旅にでようと意気込んだのはいつだったか、既に発刊されたすべての文芸書を読み返すなど物理的に不可能だと気づいた日から一切の活字を生活圏外に放り出しての放蕩無頼、読書とは作者によって選択された文字の連なりを仕掛けられた時間経過の作用に乗っかりながら欺かれる己を堪能する行為である点に於いて速読は邪道のように思うって、ちょっと息継ぎ。
 新人文学賞の最高峰とされる芥川賞(また直木賞)。そんなスゴイやつを受賞した作品を継続的に読む事で日本文学の流れが掴めると思い込んだ昨日まで。考えてみると、売れてる作品や話題作が必ずしも秀作とは限らず、選考委員の顔ぶれにしても、優れた作品を選り分ける事より出版社との繋がりや大御所としての自身の体面にウェイトが置かれているのは選評に明らかな通り。一次選考で落とされた作品が別の賞で佳作に入る事もあるくらいで、むしろスポットもお日様も当たらぬ古本屋の書棚の奥で埃をかぶりながらも悠然と構える作品に「当り」が多かった僕の経験則。これは音楽産業でも同じことが言えるだろう。
「ロック、ロック」と餓鬼はウルサイが、まともな人間にロックができると思っているのか! コラー! まともじゃない人間が音楽を演るからロックになったんじゃないか。
 捻くれた己の存在を立証させるための方便となった「ビートニク」だとしても、閉塞した時代に風穴を開けるのはいつも異端者だ。なにをやってもすぐに形式化する世の中にあって、反動として登場する人間は社会の映し鏡とはいえないか。
 例えば「人間賛歌」を書くにしても、一人の「生きた人間」を起ち上げるためにはもう一人の「生かされた」人間の存在が必要不可欠だ。「生きたキャラクター」の意味ではなく、バランスの問題だ。文学とは大いなる暇潰しの余技であり、いまどき文学に生き方を学ばんとするのは間違った読み方だとしても、現代社会を描出する作家のあるべき姿は手法の違いこそあれど目下の時代を過去を踏まえた上に記す疑い入れぬ態度のことであり、それを(息継ぎ)、あらゆるものから切断された世代のあらゆる創作物に嫌悪しか持ち得ぬ彼らと同世代の僕が世間との折り合いの悪さを感じつつも視るもの聞くものすべてを否定せずにいられない歪んだ精神が形成されたその背景を考えたとき「国家」抜きには考えられぬと思い至る当然の結果に帰着する事を繰返したここ数年、僕とは明らかに生かされていた側の人間であったことに思い至るわけだった(息継ぎ)。
 ──。
 で、人間のあるべき姿の普遍性を小説に込めるヒントは、どうやらここにありそうだ。とても単純な事だ。時代というシステムの許、工場で量産された自分かも知れない一抹の不安をぬぐい去る根拠を獲得し得ずに生きた「今の私」の小説は、作者の指紋となってハードディスクの片隅くらいには残るだろう。そうでなければ書き手としての自分の能力に問題があるかどうか、もっともそれは世間が判断すればいいのであって、残る文学に価値を求めてはいけない。それが、既に底が割れた時代を生きる作家と創作の出発点だと思っている。いや、現在ではなく、本来小説家とはそのような立場にあったのではなかったか。「自分の代弁者」がそこにいるなら、なにも小説などと肩の凝る作業を好んだりはしない。
 自分とは工場で造られた自分ではなかった、ただそれだけの事が判らず、不自由していた。突き抜ける文体の果てに文学を突き抜けるのであれば、それは僕にとって死に等しい。普遍でない言語で普遍を表現するなど、哲学者に任せておけばいい。僕は世間に問うてはいない。明日のことは「明日の作家」が描けばいい。
 そう、僕とは「勝新太郎原理主義者」だったのだった(息継ぎ)。
 総じて文筆家とは美文を旨とするが、ひとり邪念に駆られた部屋で悶々と出ない鼻をかみつつ時間を悪戯にやり過ごす生産性の上がらぬ作家の存在とは言うなれば「犯罪者」に喩えることも可能だ。第一この国ではGDPに参加できない人間はすべてヤクザではないか(こらこら)(息継ぎ)。
 優れた犯罪小説とは完全犯罪を描写する事ではなく、書き手が犯罪者(の傾向を持つ者)になることであり、政治活動崩れの作家の文章に程よい屈折と反逆と雑味が窺えるのはそのためではないか。
 最近では、エンターテインメントと純文学を分けるのはナンセンスとされるが、「娯楽系の作家こそ勉強熱心」とある文芸評論家はそういった。
 これから先、何冊の本を読めるか判らないが、時流に流されず自身の骨と肉をつくる有益なものだけを選んで読むことにしよう。
 取りあえず、山田詠美から始めるか(酸欠)。

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2009年7月 5日 (日曜日)

夜霧よ今夜もありがとう〜石原裕次郎 二十三回忌法要

『天国からのラストメッセージ「ありがとう」石原裕次郎二十三回忌特別企画』
 昨夜、テレビ(地上波)で裕次郎の映画やってたね『富士山頂fuji  新田次郎の同名小説の映画化で、富士山頂に気象観測レーダーを設置しようとする男たちの物語。なんだかプロジェクトXみたいだけど……「巨大台風から日本を守れ 富士山頂・男たちは命をかけた」(富士山レーダー・三菱電機 3月28日)そうか、同番組の第一回放送もこれだったのかcoldsweats01 「映画は映画館で」との裕次郎の意向でビデオ化されてないから初めて観たsweat01 CMでぶつ切りになるのは仕方ないけど、これは純粋に映画を楽しむというより、週末のゴールデンタイムに「裕次郎がお茶の間に降臨した」と捉えた方が良いね。実際、画面の中には昭和な磁場typhoonが張られていて、それがこちら側にもビンビン来たしねって、なに言ってるかわかんないけどcoldsweats01sweat01 亡くなってから20年以上が経過してまだ話題が尽きないって凄いdashsign03 石原裕次郎! 勝新太郎! 山崎努! 芦田伸介! 宇野重吉! 渡哲也! 映画でしか観たことない人たちが揃ってるよォ〜crying ロケも金かかってるしなぁ。「裕次郎さんが使っていた台本が19日に39年ぶりに東京都調布市の石原プロ内で見つかり、」って、もっとはやく見つけれよォ!punch annoy
「独占生中継!裕次郎二十三回忌法要in国立競技場」
 昨日からテレビばかり見てるネsweat01 裕次郎が眠る総持寺の(横浜市鶴見区)大祖堂を模した建築物(幅50メートル、高さ17メートル)を国立競技場に再現する「裕次郎寺」だもんな。スケールが違うなぁ。映画のセットみたいだsweat01 ニュースでもがんがんやってるよォsweat01「午後6時半までに8万9千人」! ウヒョ〜〜happy02。このイベントでは限定5万人に無料で記念品が配られるそうで、石原プロの発表では「応募が75万1170通」もあったそうだ。当選倍率15倍! 自分はテレビで観てたけど、まだ興奮してるねdash
「裕ちゃ〜ん!」「裕ちゃ〜ん!」「裕ちゃ〜ん!」
 渡哲也が熱かったねhappy02 天海祐希も美人だったしなぁheart02 ああ、お腹すいたnoodle
 でも後にも先にも彼だけだネ!
 shine昭和の大スター石原裕次郎shine
『黒部の太陽』もまだ観てないし、、、映画館でやってくれよォ!pout これを観るまで僕の中でまだまだ裕次郎は終わらないsweat01dash
 しかし取り留めがないブログだなぁbleah

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2009年6月19日 (金曜日)

キッカマン4〜さよなら、キッカマン。キッカマンVSヘベレケ怪獣ツヨポン ♪きみにも みえる 民族の星

 右翼が街宣活動を始めると《騒音問題》を持ちだす人がいる。そこで私は考えた。パフォーマンスの一形態として、まず大型スーパーや量販店の駐車場を勝手に会場として設定する。つぎにネット上で事前告知して聴衆を募る。だが余所様の施設内で許可なく集会は開けないから、各参加者は車を降りずに演説を聴かなければならない。では、表向き買い物に訪れた聴衆にどうやって演説をぶてばいいのか。そう、演説者は街宣車内からFM波を使って電波を飛ばし、車内の聴衆はそれぞれカーラジオから演説を受信すればいいではないか? なんとなくドライブシアターのようだが……要再考。
 ところで、活動に際してはTPOが必要だ。企業汚職や領土問題、または対外的スパイ活動を働いた国賊に捩じ込むときは『浪花恋しぐれ』の岡千秋のダミ声が相応しい。若い聴衆と対峙するときはNHKでお馴染みの体操のお兄さんキャラを使い分けたい。ハツラツとした若々しさは訴求力を持つ。しかし、こちらから聴衆を制限するのはよくない。興味の対象が《髪の毛サラサラ》から《血液サラサラ》にシフトした高齢者の多い会場への進撃に備え、《みのもんた系》を積極的に取り入れていかねば街宣者に明日はない。一見なげやりとも思える巧みな話術で聴衆の心をがっちり捉える作戦である。その一方で、ちびっ子の多い集会所では街宣車そのものに手を加えるのもいいだろう。風船状に切り抜いたピンクやイエローのカッティングシートで漆黒の戦闘車両をデコレートするのも一考だ。パンダさんやチューリップのワンポイントも効果的だ。

 CDプレイヤーの再生ボタンを押すとオリジナルテーマが流れた。先月からウルトラマンの替え歌を正式採用している。景気付けにもってこいだ。会場はスーパーマーケット、ターゲットは親子連れ。演説を聞いたあと夕飯の買い物ができて便利だろう。
 今日の私は秘密戦隊系のナイスガイを気取っていた。マイクを握り、まばらに集まりだした聴衆にタイガーボードの水島裕にも似たメロウ&チャイルディッシュな声で語りかける。開口一番「みんな憂国って知ってる!? 国債の乱発、加速する少子高齢化、先進国中最低の食糧自給率など、お金持ちの国とされている僕らのニッポンだけど、実はこの国、すべての借金をあわせると816兆円もあって、国民ひとりあたりに換算すると640万円にもなるんだ。逆さにしても屁もでないほど進退窮まっているんだよ! もう鼻血も出ないんだ。実に暗澹(あんたん)とした気分になってくるね!」
 このタイミングで、ライオンとシマウマが微笑む街宣車の陰より《ヘベレケ怪獣・ツヨポン》が登場した。中には大学生アルバイトのたけしが入っている。すべて台本通りだ。
「グウェエエ、ギギギュオオウ」
 ヘベレケで開き直ったツヨポンは大げさな身振りでちびっ子たちに襲いかかった。
「グルルルゥ、パンツ脱いで禅を組むぞコラ!」
 フォークギターを掻き鳴らしテーマソングを歌い終えた私は荒れ狂うツヨポンにギターを振り回して応戦するが、お兄さんの姿では相手にならない設定。
「みんな、もっと応援してくれ!!」
 私はちびっ子を扇動した。多くのちびっ子は掴んだ母親の足に顔を埋めてハニカみ笑いを浮かべるが、深刻な形に眉毛を寄せる子ども、すっかり熱くなり怪獣を罵倒する子供、さらには突然の悲劇に泣き出す子までいた。心得たツヨポンはそんな幼児を盛んにイジることで恐怖を倍増させ、苦笑いで奇異な空間を白日の下に晒した。
 週末の昼下がり、店が用意したアトラクションと間違えた若い母親とちびっ子でごった返す特設ステージ。すべてが計算通りだ。ここまでくればしめたもの、あとは正義の味方キッカマンに変身して怪獣を倒すだけ。右翼の強さを子供達に思い知らせるのだ。
 キッカマンとなるために、素早い変身方法を研究していた。あらゆる可能性を試した結果、最後に辿りついたのは着るのではなく脱ぎ捨てる方式だった。ツヨポンは最初から着ぐるみを着用しているが、一市民からショーを始める私には歌舞伎なみの迅速な変身術が要求された。今日はジーンズの上下だったが、実はその下にビビッドカラーのナイロンシャツを縫い合わせたキッカマンのボディスーツを装着していたのだ。
「チェインジ! メタモルフォーメーション・タイプB 省エネ型! ビリ」
 クルマの後ろで素早く衣服を脱ぎ捨てキッカマンに変身したあと、怪獣の前に勇姿を現し、変身ポーズ《炎の舞》でシコを踏んだが、コスチュームの背中でいやな音が響いた。股のあいだが気になって仕方がない。萎縮した私はすっかり内股となりながらもキメ台詞を続けた。
「ひと〜つ 人世の生血を啜り、ふた〜つ不埒な悪行三昧、みっつ醜い浮世の国賊を、退治てくれようキッカマン!」
(プッ。)
 いちばん後ろで見ていた中年男が俯いて背中を震わせている。何かを堪えているようだ。アクションに紛れて男に接近しよう。そのついでにダメージを与えてやる。
「(たけし、たけし、観客の温度を上げろ)」
 組み合うツヨポンに耳打ちする。とたんにツヨポンのアクションが大きくなり、全裸ヨガ攻撃を仕掛けてきた。
「飲んだ俺が悪いんじゃない。俺を酔わせた酒が悪いのだ! グウェエエ」
 たけしのアドリブが冴える。だが、それがキッカマンとちびっ子の義侠心に火をつけた。
 すると突然ツヨポンが私に背を向け、地べたにあぐらをかいた。
「いいですか、お嬢さん。あなた、お酒の害、本当に分かってます? キッチンドリンカーになってませんか?」
「(バカ、おまえが《みのもんた》やってどうすんだ)」
 慌ててツヨポンを蹴って転がし、口を塞いだ。
 やがて戦いは佳境に入った。キッカマンの必殺攻撃《民族浄化光線》が放たれる。この光線は、相手の脳をトロかして動きを封じる恐怖の液状化光線なのだった。激しく懊悩するツヨポン。無敵のキッカマン。だが、そんな私にも弱点があった。それは戦闘中、天皇陛下の御真影を見せられるとあまりの畏れ多さで正視できず、目を逸らせた隙にやられてしまい、ピンチを招くことだった、だが心配無用、こんなときのためにもうひとり仕込みを用意しているのだ。《仲良し戦士・避妊忍者クレナイデビル》がそれだ。桃色ヘルメットと白いタオルに覆われた素顔が謎のヒロインである。彼女は何よりもカルビ弁当とピルを好んだ。キッカマンとクレナイデビルが左右に別れて展開するツープラトン攻撃《愛は民族を救う》が炸裂して生き残ったものはいない。ただ、クレナイデビルはすぐクルマの中で休憩したがった。私もたけしもタバコを吸わないが、この女だけやたらヘビースモーカーなのだ。時給が安いと不平不満が多いのも難点だ。あるときなど私のギターを勝手に持ち出し、巻紙のおかしなタバコをくわえたまま自動販売機にもたれて「♪ラブ・アンド・ピース」を繰り返していたことがある。その日は最後まで劣勢のキッカマンに助太刀しようとせず、実に気分屋でムラっ気のある女がクレナイデビルなのだ。この頃では「煙草はいいけど大麻がいけないのはナゼか?」と、観客に論戦を挑んでは相手に渋い顔をされるのが常だった……。

 ……ちょっと、あなた。さっきからラジオの周波数間違えてるよ!
 男の怒鳴り声で私は目が覚めた。
 気づいたときには数台のパトカーに取り囲まれていた。若い警官がパトカーの無線で本署と交信していた。事情を知らないスーパーの店長や近隣住民が困惑の表情で私をみている。
 ひとりの屈強な警官がノートとペンを持って近づいてきた。職務質問をするつりだろう。
「またあなたですか。何度目ですか」警官は面倒臭そうにノートを開いて前回の騒ぎを確認した。
 大学生アルバイトのたけしや親子連れはすでにどこかへ消えていた。クレナイデビルはどこだ。
「なんですか、それは。そんなもの最初からいやしないじゃないか。いい加減にしないと、入るところに入ってもらいますか。ねえ!」
「放せ無礼者! 救国戦士になにをする」
 あきれ顔の警官。
 赤い回転灯の明滅。
 騒ぎを見つめる人々の冷ややかな視線。
 傾いた電柱と弛んだ電線に切り取られたくすんだ空。
 いつもの風景。でも……もう慣れっこさ。
 だって、キッカマンなんだから。
「フフっ、マイッタね」

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キッカマン3〜みんなキッカマン「孤独は優れた精神の持ち主の運命である」

 その日の会場は出玉率で好評の某パチンコ店だった。
 大型駐車場のはずれ、店とは正反対の一郭に軽乗用を乗り付け、アスファルトの上を引き直された真っ白な駐車線の角に降り立った私は、野球のキャッチャーのようにして来店者のすべてと向かい合っていた。
 この国の人間は戦争はいけない、広島と長崎を忘れるな、戦争を知らない子供に語り継げなどと、自分だって戦争を知らないクセによく言えたもんだとつくづく思うのです。多くの日本人にとって、当時の日本軍が外地でどのような活動をしたか、また状況に置かれていたか、あまりにも知られていないではありませんか。戦争は昔の出来事ではなく、世界各地で今日も繰り広げられているのです。それを今日の繁栄だけ享受して後はシラネ、とする態度は如何なものでありましょう。やった事とやられた事の双方で《戦争》ですが、そのすべては人間の所業なのであります。その時代の行為者と血縁あるのが私たちである以上、自身の裡に眠る野獣性に自覚的であらねばならないとあまねく訴えるのが私の使命であります。当時、国内でのウラン調達は絶望的でありましたが、もし、仁科芳雄博士らの《二号研究》が成果を挙げていたら、実戦における人類初の原爆使用は日本だったかも知れません。……そこのおじさん。チョット待ってください。あなたもシラネ、ですか? 戦争を知らないおじさんたちにこそ私はあまねく問いかけているのですから。かつて全国を震撼させた浅間山荘事件をご記憶でしょう。連合赤軍による立てこもり事件です。それを契機に学生運動は一応の収束を見せはしたものの、世の教育ママゴンは政治活動にコミットする我が息子の姿勢を忌み嫌いました。そんな活動に関わって官憲に摘発された日にゃ大学を除籍された揚げ句、一流企業にも入れず、自ら進んで《負け組》になるようなものだというわけです。政治や社会の動向に関心を持ったところで仕方がないという、70年代に全盛を極めた教育ママゴンの在り様が後の日本を、つまり現在、社会の中核をなすおじさん達を決定付けたといえましょう。ちなみに家庭を顧みない国柄ゆえ当時のお父さんは家の中のことなど何もわかってやしません。現在のお父さん、つまり猛烈会社員だったおじさん達も、定年退職した日に老妻から離婚届を突きつけられ途方に暮れるに違いないのだ。結婚とは、男の権利を半分にして義務を二倍にする事なのであります。《人の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり社交を愛するからでなく、孤独が恐ろしいからである》そんなショウペンハウエル的作り笑いを浮かべるのが私たち日本男児の精々でありましょう──。
 大型商業施設の駐車場を中心に無許可で巡回するマイク・パフォーマンスは、行く先々でけだるい午後の空気を破った。暴力的な言葉の断片を我鳴り立てるのではなく、ときに挑発を織り交ぜ通行人の目耳を奪いながらも整然とした主張に声を張るスタイルは選挙演説のようだ。もし己が声帯をしびれさせた渾身のアジに生理的そぐわなさで反論する者があるなら、それは論者としての私の問題にとどまらず、肥大した脳の形に都市化された街とそこに住まう人間の相関性にこそ目を向けなければならないだろう。
 少子化と引き換えに好調なペットビジネス/セックスレス夫婦の増加と出会い系サイトの盛況/肥満解消で通うフィットネスクラブの傍ら飽和状態のモータリゼーション/家族分散型社会で捨て置かれた孤独な老人の生きがい探し/改良を重ねて造り出された愛玩用の人造犬と火を吐かないゴジラの対照/さらに、その光景を観察する私との対照等々、私のマイクはさらに熱を帯び、自ら理想とする街宣スタイルの提示にまで踏み込みながら、その演説はさわやかな舌のそよぎに乗せて7月の緑風に踊った。

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2009年6月17日 (水曜日)

キッカマン2〜共同幻想に生きる者へのディストラクション的アトラクション、それは街宣活動

 ここでの共同幻想とは実存主義哲学に傾倒する貴方の根源的「無」に根差したそれとは違い、都市生活者が抱える不安そのものである。実力行使はないまでもミステリーを得意とする小説家の常套手段である社会に対する発揚的手法に近似しながら、身体性を喪失した時代にあって逆に肉体を用いた表現形態としてのパフォーマンスを行使した街宣活動には市民の反発を招いても致し方なく、また誰を恨む筋でもない。ただ、それでも人を魅了して止まない拡声器の魔力とは何か──。
 あの日、私も見物しようと思いつつつい見損ねた右翼の街宣車。
 大型車ながら、高速道を軽自動車の料金で通過できる街宣車。
 その内部の様子で想像力を掻き立てて已まない街宣車。
 鶴田浩二や端やんのシブい歌唱ではなく伸びたテープがいけない街宣車。
 国道を時速20Kmで移動して後続に煽られる心配がなく車線を独り占めできる魔法の乗り物、それが街宣車。
 レコード会社の株価を支えるため量産されて、3か月で跡形もなく消え去る昨今のポップスに慣れ親しんだ世代に春日八郎は確かにきつい。また、彼らの歌声が特異な音量で再生される霹靂(へきれき)に顔をしかめる人がいるのも事実だ。だが、いまこそ私たちは往年の軍歌の調べに耳を傾けるべきではないか。軍歌。それは軍隊生活を歌った歌謡曲。がんばった。みんな苦しかった。だれもが大変な思いをした。この世に悪い軍隊はなく、ただ悪い指揮官が在るばかりだ。日本だけが「平和憲法」を死守したところで、中国をみろ。北朝鮮をみろ。イランをみろ。情報統制に耳と口を塞がれた国民が酸欠の金魚のように喘いでいるではないか。ところが現在の日本はどうだ。プロのアジテーターなら誰もが所有する「マイ・拡声器」を握りしめ、お天道様の許、今日も自慢の声帯を奮わせられたこの自由主義に万歳。
 ついに拡声器の怒号が開始された。この日の右翼氏は、市の外郭団体による間接的ながら公金の私的流用と、出来事に対する関係者の取り組みへの弱腰を糾弾することを主な目的とするアジテーションだった。
 右翼氏の街宣車のことを私は心の中で「ハウルの黒い城」と呼んでいた。ハウルがやってくると、人々は顔を背ける。忘れ物に気づいて引き返す人もいる。まるでハウルが透明人間にでもなったかのように、道行く人々はとたんに前しか見えなくなり、つい歩みを早めてしまうのだ。それはハウルの主義主張を敬遠するばかりが原因ではなく、あの、プレイヤーの品性に関わるほどのフルボリュームなラウドスピーカーからほとばしる大音響にあるのは明らかだ。
 貴方は最近、大きな声を出したことがあるだろうか。大きな声を出すのは意外と気持ちの良いもので、新陳代謝も活発になるし、発汗を促進することからダイエットにも有効だ。その意味で、街宣活動とはひとつの健康方と呼べるかも知れない。大きな声を出していると次第にトランス状態に陥り、できればこんなところから一刻も早く脱出したいとでもいった周囲のよそよそしい物腰がヒリヒリする声帯と相俟って、心地よく感じられてくるのである。殆どサディズムの境地である。
 街宣活動中のハウルは時速20Km〜30Kmの安全運転となる。私のクルマがその後ろにピッタリくっついて離れない。
「はいはい、街宣車は速く走れませんよ。車線を変更して抜かして下さいね」
 街宣車の《追っかけ》じみた私の奇行に対して、それ自体は物言わぬハウルの中から注意を受けた。事前にメールでコンタクトをとり、時間とコースを教えられていたが、ハウルの姿が見えないうちに予定の時間が過ぎてしまい、私は焦っていたのだ。というのも、前回の街宣で右翼氏の活動現場を見つけることができず、主要なコースを探し回った揚げ句に空振りで終わってしまい、とても悔しい思いをしていたのだ。
 空気を切り裂かんばかりのマイク・パフォーマンスが2クール目に突入する。
「市民のみなさん今日は。こちらはぁ、政治結社大倭総本部であります」
 なんといっても公道を移動する街頭宣伝車。予め先回りして話を少し聴き、街宣車が通りすぎるとまた先回りして少し聴くことを繰り返すのだが、演説が細切れになって非常にもどかしい。
 右翼氏は、市内の大型家電量販店の駐車場にハウルを乗り入れ、停車させた。今度は腰の据わった演説を展開させるつもりのようだ。
 休日の午後。楽しい親子連れと最新型のカラフルなマイカーで賑わう商業施設の活気に、大小2台の黒い車両が楔を打ち込んだ。
(さっきから変なヤツが街宣車の周りをうろちょろしてるナ)
 額から大粒の汗を流して必死で街宣車に追いすがり、強ばった笑顔で手を振る私。スモークガラスに遮られたハウルのなか、右翼氏には薄気味悪いものとして映ったのではないだろうか。
 

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