カテゴリー「厭世観」の記事

2011年4月19日 (火曜日)

網走番外地より愛を込めて〜公営ギャンブルといえば、競馬、競輪、競艇、オート、パチンコの5種目しかないね。

「自動販売機なんてやめちまえ。コンビニで買って家で冷やせばいいじゃない」
「パチンコはジャラジャラと音を立てるために電気を煌々とつけるのは、世界中で日本だけだ」
 原発問題に端を発した都の電力不足を受けて、石原慎太郎都知事の発言が話題となっている。パチンコの是非についてはそれぞれ考え方もあるだろうが、その風景にまつわる個人的な雑感を少々……。

 競馬が盛り上がって久しいね。そのむかし『太陽にほえろ!』に登場する犯人は競馬で人生が狂ったおじさんばかりだった。だが限られた時間内で的確な演出を要求されるテレビドラマの手段としては有効じゃないか。いまでは人気タレントを起用したテレビCMなど、JRAによるイメージアップ作戦の成功で、競馬場にはカップルや親子連れの姿も珍しくない。なかには馬券を買わず、疾走する馬を眺めるのが好きという《サラブレッドの血統マニア》もいるほどだ。もちろん収益がなければ開催が成り立たないのでギャンブルの一種に違いないが、そのギャンブル性を声高に避難する者もない。競馬には政府公認の強みがある。だが他の公認ギャンブルは悲惨だ。みんな眼が血走ってるし、背中に人生の重荷を背負った中年がうつろな目で立ち食いソバをすすっているんだ。いいか若者、間違ってもデート・コースに競輪をいれるべきではない。ただし変化が欲しいときは別だ。
 ところで公営ギャンブルといえば、競馬、競輪、競艇、オート、パチンコの5種目しかないね。えっ? パチンコ違う? いいんじゃないの、業界に警察OBたくさん天下ってるし、党派を超えた政治家も多数利権に群がっている。「パチンコ業界/政治家」で検索するといろいろ出てくるよ(*・∀-)b。でもいい加減なこと言うとまた怒られるので調べてみた。
 そもそもパチンコや雀荘などギャンブル性の強い営業は風適法(風俗営業適正化法〜風俗業務の適正化を図ることを目的としている)で7号営業に分けられている。《設備を設けて客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業》というわけだ。【射幸心】とは「偶然の利益を苦労をしないで得ようとする欲にまみれた心」のことで、人間はこの種の欲望に弱い。
 獲得したタマは店内のコーナーで景品と交換するが、その種類について警察庁では「最低500種類以上」と余計な通達を出している。パチンコは飽くまでも景品交換を目的とした遊戯だから、細かな法整備を建前とするのだろう。現金や有価証券などの引き換えは風営法で禁止されている。だからパチンコは賭博ではない。
 景品は「一般景品」と「特殊景品」の2種類に分かれる。「特殊景品」とは「特殊景品販売会社」がパチンコ店に納めた品物だ。もし「特殊景品」との交換を希望するなら、パチンコ店内で出玉を精算し、それに応じた「特殊ブツ」を受け取り、パチンコ店の玄関を出てすぐ脇にあるのが一般的な「特殊景品買い取り所」に向うことになる。店が「買い取るに値する特殊ブツ」と判断することで現金で買い取ってくれる。「買い取り所」は公安委員会から古物商のライセンスが与えられているので、形としては合法となる。買い取り所には小さな窓がひとつだけあるのが一般的だ。防犯対策だろう。明るい清潔さを売りにした店ならもっとオープンだろうが、やってることは同じだ。小さな窓から覗き込んでも内部の様子は分らない。小窓の前に立つと、窓がスーと開いて穴があき、そこから白い手が伸びてくるので、その手に「ブツ」を握らせよう。するといちど引っ込んだ手がまたでてきて現金を渡される仕掛けになっている。すべては暗黙の了解なのだ。特殊ブツの価値はあらかじめ決まっている。このとき「山」「川」などの合言葉は不要だ。旧東側の軍事スパイではない。たいていはおばちゃんがお茶をすすってセンベイをかじりながらポータブルテレビを見ているだろう。あるパチンコ店では特殊景品として《オモチャのチップ》をくれる。最初から価値が設定されているのだから《ウサギのクソ》だって構いはしない。だが家からもってきた正露丸で誤魔化されては業者もたまらないので、やはりチップが無難だろう。いずれにせよブツを現金と引き換えてくれる魔法のお店がすぐ隣りにあるのだ。
 それぞれ経営が異なる「パチンコ店」「特殊景品販売会社」「特殊景品買取会社」をシステム的に巡ることで無事換金されるのだから、こう言っては身も蓋もないが、国の権力が認めりゃ何でもありなのがこの世の中だ。「御上に寺銭のまわらない賭場をかってに開帳されちゃ困るんだ!」というわけで、ほとんど極道の世界といえよう。

 知人にパチンコで生計を立てる者がいる。彼からいろいろ話を聞かせてもらう。でも彼は絶対に僕をパチンコに誘おうとしない。それが、浮世を離れて生きる自分に課したルールなのだと思う。だから、彼はいつも独りだ。僕自身はギャンブルの類いを一切やらない。ギャンブルで人は熱くなるが、僕は逆に冷めてくる。賭け事に熱中する自分を俯瞰してバカバカしくなるようで、だから、勝ち方を研究しようとも思わないし、その時間と金を他のことに使った方がよほど有益に思えるのだ。
 中学2年の夏、生まれて始めてパチンコを経験した。ものの5分で当時の大金3千円が消えてしまい、涙目になって世間を恨んだものだ。新聞配達で稼いだ金だった。
「世の中にこんな不条理があっていいのか!」
 あれがトラウマになったのかな。

パチンコ/Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/パチンコ

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2010年3月20日 (土曜日)

スーパーオタクヒキニートのためのエチュード

 経済成長を優先させたこれまでの日本社会は、効率的速さと量的多さといった価値を尺度に「拡大、前進、上昇」する事を重視し、そのため“企業戦士”なる男性がビジネスシーンで狩猟性や攻撃性を発揮する事で活性化できた社会だった。その事の弊害は別問題としても、現在のように経済的な成長を目的としない社会の到来で必要とされるのは、その「拡大、前進、上昇」的価値観から敢えて離脱する事に他ない。「経済成長を前提としない社会などオマエが勝手に決めるな」とお思いの人もいるだろうけど、実は時代はすでに移行していて、例えば少子化がその一例といえる。
 少子化を克服のため、社会進出を始めた女性の職場環境の改善等を試みてもあまり効果はないだろう。そもそも一個体としてのヒトの存在性とは遺伝子情報を後世に繋げるための一通過点に過ぎないわけで(その意味で名士として自ら「銅像」を残したがるヤツなんざロクでもない「俗物」といえる)、遺伝子情報「ワタシ」が「種」を残す以前に“個として在る事の充実”に重きを置くライフスタイルの変化を受容しうる民主主義を選択した先進国で少子化問題が共通するのは首肯ける。それと同時に、他の動物と比較してヒトの老後は非常に長いが、これは否が応でも個としての在り方が問われる必然をはらんだ問題でもある。ここでの「老後」とは子育てを終えた以降を指すが、二十歳を迎えたヒトが成人として認知されるシステムに則した場合、二十五歳で子供をつくったヒトは四十五歳にして晩年(余生)となるわけで、もっとも「まだ住宅ローンが残ってる」といってもそれはヒトの生死を離れた副次的な問題に過ぎず、マイホームを建てなければヒトは生きていけないわけでもない。何も「四十五歳で死ね」といってるわけではない。もし長生きに興味があるなら、あとは個人の裁量で社会のシステムに準拠しつつ「個の在り方」を模索しながら生涯学習するもよし、年金を握りしめた先の風俗で性の残り火を燃焼させるもよし、個人的な趣味の世界を更に探求するもよし、長生きを以って美徳とする価値観の共済圏ともいえる老後福祉政策とはそうしたコミューンの形成を築く、まさに今日的な課題なのだろう。
 すでに人口減退期にはいった日本。生産力の縮小は国力の衰退に直結するわけで、それを補うために第三国から構造難民を積極的に招いて労働力に宛てがう一方、一部の資本家が上前をはねる「あなた作る人、僕たべる人」方式に不満を持つことでオルグされた難民が暴徒化する社会、弛緩した日本経済にクリティカルブローを与える事でこの国の経済はその息の根を止め、さらに悪貨が良貨を駆逐する犯罪の増加も手伝い、日本が三流国家に転落するのが西暦201X年——。
 最後はフィクション混じりだけど、なんだかお先真っ暗でユウウツな気分になってくる。しかし、ここで求められるのが価値観の転換だ。「スローライフ」とやらもその一つだろう。
 経済成長型社会に対する定常型社会で必要なのは、前述の「拡大、前進、上昇」に価値を置く社会から自覚的に降りることで、これは昨今のフリーターやニート、さらに引き籠りともリンクする問題だ。「拡大、前進、上昇」しない彼らが選んだ道こそが「深く掘り下げる」ことだった。それに併せて、全共闘の勝ち組という意味で胡散臭い糸井重里のコピー『おいしい生活』(1982年 西武百貨店)が牽引する時代が培養土となった、70年代後半に蒔かれたオタクの種子は俯き加減のまま『元気よく地下深く』(2007年 てっちくん)根を伸ばすことで今日に至る。
 70年代後半のミュージックシーンではNWOBHM(ニュー・ウェーブ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)が叫ばれた。読み方は誰も知らない。これになぞらえて10年代の日本における彼らをNOHNS(ニュー・オタク・ヒキ・ニート・スイーツ)と呼ぶことは可能だろうか。
 ……おかしなブログだねぇ、いつも。ウソ臭いし。最後まで読んで損した気になるでしょう。

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2009年7月18日 (土曜日)

墓場でダバダ〜流浪民と赤い花

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今日は朝から墓場にいました。
僕のご先祖様はこの方向に眠っています。子孫の落ちぶれた姿に落胆していることでしょう。
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土曜日ですが、閑散としています。
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ここで時間をつぶすのは初めてではありません。なので、ちゃんと僕の場所があります。
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雑木林で、一カ所だけ紅葉してる葉がありました。不思議です。
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風があって寒いので、クルマに戻ります。少しずつではありますが、車内も流浪者の雰囲気がでてきました。
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丘のてっぺんに登ってみました。かなり高台にある霊園です。ここからだと、街が一望できます。今日は朝から曇り空で、肌寒い一日です。
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花壇もあって、手入れが行き届いています。お花さんも寒さを堪えているようです。coldsweats01
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サァ時間だ。そろそろ帰りますか。
死んでないから生きている今日という日のおしまいです。
ではまたhappy01

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2009年7月16日 (木曜日)

ロックンロール・ジプシー〜笙野頼子で文句あっか!

 先月いっぱいで現場が終わってしまった。ただいま失業中。
 正確には、有給の残りを消化してる最中なので、会社に籍は残っているけど、実質は自宅待機といったところ。
 朝がくる。取りあえず、表へ出る。時間をつぶしてうちへ帰る。なんて単調なくりかえし。
 今日はどこへ行こうか。ちょっと遠くへ行ってみようか。
 ヨーカドー? 家電量販店? 
 面接にいくのではない。仕事をしてる振りの偽装工作。いろいろ事情があってね。
 北海道とはいえ、この季節の太陽はなかなかきついね。屋根付き駐車場でないともたんよ。
 ホームセンターの店先で、花が並んでいました。君たち、いまがいちばんいいときだね。
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 しまった。広い駐車場には目立たない場所を選んでクルマを停められるけど、屋根がない……熱い……。
 おや? ミミズか。カンカン照りのもと、アスファルトの上ではんぶんノビてやがる。「つ」だってよ。
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 少し前なら、草むらの脇に移動させてやって、いい人になった気でいたんだろうけど、今日は違うぜ。気持ちが荒んでるからな。オマエなんか、知ったことかってね。
 あっ、シロオナガ鳥がやってきた。ほんとうはシロオナガ鳥じゃないかもしれないけど、なんかそんな感じだから自分的にはシロオナガ鳥となっている白と黒のストライプになった鳥だ。スズメと同じくらいの大きさだけど、妙に人を恐れないからどんどん近づいてくる。ほーら。あっという間にミミズをくわえて飛んでっちまった。みんな、腹が減ってるからな。
 さて、お握りでもたべるかいな。水筒には氷が入ってて冷たいね。
 出がけに図書館で借りた文芸誌、つまんない小説読んでたから、よけいに腹が減るよ。下らない小説書く奴に限って深刻な顔してるの、あれよくないな。このひとたち、何のために小説書いてるんだろう。笙野頼子の表紙はもっと良くないな。特集だから仕方ないか。子供の頃の笙野頼子の写真を見ながらお握り食べるの、きっと人生の中で一度だけだろうな。ん? 二歳当時の笙野。もうはや笙野じゃん。婦人科で子供の取り違えがあってもすぐ突き止められちゃうな。九州まで行ってもダメだ。
「はい、うちの子です」
 笙野家にはDNA鑑定いらんね。いいなぁ笙野頼子。
 さてと、お握りも食べちゃったし、小説の続きを読もうかね。気が乗らんけど。こいつ面白くないから。こんなんで文藝賞か。どんな手を使ったんだろう。
 ああ、暑い。
 あのまま図書館で粘ってればヨカッタ。
 なんでこんなもん読んでるんだろ──。

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2009年6月19日 (金曜日)

キッカマン4〜さよなら、キッカマン。キッカマンVSヘベレケ怪獣ツヨポン ♪きみにも みえる 民族の星

 右翼が街宣活動を始めると《騒音問題》を持ちだす人がいる。そこで私は考えた。パフォーマンスの一形態として、まず大型スーパーや量販店の駐車場を勝手に会場として設定する。つぎにネット上で事前告知して聴衆を募る。だが余所様の施設内で許可なく集会は開けないから、各参加者は車を降りずに演説を聴かなければならない。では、表向き買い物に訪れた聴衆にどうやって演説をぶてばいいのか。そう、演説者は街宣車内からFM波を使って電波を飛ばし、車内の聴衆はそれぞれカーラジオから演説を受信すればいいではないか? なんとなくドライブシアターのようだが……要再考。
 ところで、活動に際してはTPOが必要だ。企業汚職や領土問題、または対外的スパイ活動を働いた国賊に捩じ込むときは『浪花恋しぐれ』の岡千秋のダミ声が相応しい。若い聴衆と対峙するときはNHKでお馴染みの体操のお兄さんキャラを使い分けたい。ハツラツとした若々しさは訴求力を持つ。しかし、こちらから聴衆を制限するのはよくない。興味の対象が《髪の毛サラサラ》から《血液サラサラ》にシフトした高齢者の多い会場への進撃に備え、《みのもんた系》を積極的に取り入れていかねば街宣者に明日はない。一見なげやりとも思える巧みな話術で聴衆の心をがっちり捉える作戦である。その一方で、ちびっ子の多い集会所では街宣車そのものに手を加えるのもいいだろう。風船状に切り抜いたピンクやイエローのカッティングシートで漆黒の戦闘車両をデコレートするのも一考だ。パンダさんやチューリップのワンポイントも効果的だ。

 CDプレイヤーの再生ボタンを押すとオリジナルテーマが流れた。先月からウルトラマンの替え歌を正式採用している。景気付けにもってこいだ。会場はスーパーマーケット、ターゲットは親子連れ。演説を聞いたあと夕飯の買い物ができて便利だろう。
 今日の私は秘密戦隊系のナイスガイを気取っていた。マイクを握り、まばらに集まりだした聴衆にタイガーボードの水島裕にも似たメロウ&チャイルディッシュな声で語りかける。開口一番「みんな憂国って知ってる!? 国債の乱発、加速する少子高齢化、先進国中最低の食糧自給率など、お金持ちの国とされている僕らのニッポンだけど、実はこの国、すべての借金をあわせると816兆円もあって、国民ひとりあたりに換算すると640万円にもなるんだ。逆さにしても屁もでないほど進退窮まっているんだよ! もう鼻血も出ないんだ。実に暗澹(あんたん)とした気分になってくるね!」
 このタイミングで、ライオンとシマウマが微笑む街宣車の陰より《ヘベレケ怪獣・ツヨポン》が登場した。中には大学生アルバイトのたけしが入っている。すべて台本通りだ。
「グウェエエ、ギギギュオオウ」
 ヘベレケで開き直ったツヨポンは大げさな身振りでちびっ子たちに襲いかかった。
「グルルルゥ、パンツ脱いで禅を組むぞコラ!」
 フォークギターを掻き鳴らしテーマソングを歌い終えた私は荒れ狂うツヨポンにギターを振り回して応戦するが、お兄さんの姿では相手にならない設定。
「みんな、もっと応援してくれ!!」
 私はちびっ子を扇動した。多くのちびっ子は掴んだ母親の足に顔を埋めてハニカみ笑いを浮かべるが、深刻な形に眉毛を寄せる子ども、すっかり熱くなり怪獣を罵倒する子供、さらには突然の悲劇に泣き出す子までいた。心得たツヨポンはそんな幼児を盛んにイジることで恐怖を倍増させ、苦笑いで奇異な空間を白日の下に晒した。
 週末の昼下がり、店が用意したアトラクションと間違えた若い母親とちびっ子でごった返す特設ステージ。すべてが計算通りだ。ここまでくればしめたもの、あとは正義の味方キッカマンに変身して怪獣を倒すだけ。右翼の強さを子供達に思い知らせるのだ。
 キッカマンとなるために、素早い変身方法を研究していた。あらゆる可能性を試した結果、最後に辿りついたのは着るのではなく脱ぎ捨てる方式だった。ツヨポンは最初から着ぐるみを着用しているが、一市民からショーを始める私には歌舞伎なみの迅速な変身術が要求された。今日はジーンズの上下だったが、実はその下にビビッドカラーのナイロンシャツを縫い合わせたキッカマンのボディスーツを装着していたのだ。
「チェインジ! メタモルフォーメーション・タイプB 省エネ型! ビリ」
 クルマの後ろで素早く衣服を脱ぎ捨てキッカマンに変身したあと、怪獣の前に勇姿を現し、変身ポーズ《炎の舞》でシコを踏んだが、コスチュームの背中でいやな音が響いた。股のあいだが気になって仕方がない。萎縮した私はすっかり内股となりながらもキメ台詞を続けた。
「ひと〜つ 人世の生血を啜り、ふた〜つ不埒な悪行三昧、みっつ醜い浮世の国賊を、退治てくれようキッカマン!」
(プッ。)
 いちばん後ろで見ていた中年男が俯いて背中を震わせている。何かを堪えているようだ。アクションに紛れて男に接近しよう。そのついでにダメージを与えてやる。
「(たけし、たけし、観客の温度を上げろ)」
 組み合うツヨポンに耳打ちする。とたんにツヨポンのアクションが大きくなり、全裸ヨガ攻撃を仕掛けてきた。
「飲んだ俺が悪いんじゃない。俺を酔わせた酒が悪いのだ! グウェエエ」
 たけしのアドリブが冴える。だが、それがキッカマンとちびっ子の義侠心に火をつけた。
 すると突然ツヨポンが私に背を向け、地べたにあぐらをかいた。
「いいですか、お嬢さん。あなた、お酒の害、本当に分かってます? キッチンドリンカーになってませんか?」
「(バカ、おまえが《みのもんた》やってどうすんだ)」
 慌ててツヨポンを蹴って転がし、口を塞いだ。
 やがて戦いは佳境に入った。キッカマンの必殺攻撃《民族浄化光線》が放たれる。この光線は、相手の脳をトロかして動きを封じる恐怖の液状化光線なのだった。激しく懊悩するツヨポン。無敵のキッカマン。だが、そんな私にも弱点があった。それは戦闘中、天皇陛下の御真影を見せられるとあまりの畏れ多さで正視できず、目を逸らせた隙にやられてしまい、ピンチを招くことだった、だが心配無用、こんなときのためにもうひとり仕込みを用意しているのだ。《仲良し戦士・避妊忍者クレナイデビル》がそれだ。桃色ヘルメットと白いタオルに覆われた素顔が謎のヒロインである。彼女は何よりもカルビ弁当とピルを好んだ。キッカマンとクレナイデビルが左右に別れて展開するツープラトン攻撃《愛は民族を救う》が炸裂して生き残ったものはいない。ただ、クレナイデビルはすぐクルマの中で休憩したがった。私もたけしもタバコを吸わないが、この女だけやたらヘビースモーカーなのだ。時給が安いと不平不満が多いのも難点だ。あるときなど私のギターを勝手に持ち出し、巻紙のおかしなタバコをくわえたまま自動販売機にもたれて「♪ラブ・アンド・ピース」を繰り返していたことがある。その日は最後まで劣勢のキッカマンに助太刀しようとせず、実に気分屋でムラっ気のある女がクレナイデビルなのだ。この頃では「煙草はいいけど大麻がいけないのはナゼか?」と、観客に論戦を挑んでは相手に渋い顔をされるのが常だった……。

 ……ちょっと、あなた。さっきからラジオの周波数間違えてるよ!
 男の怒鳴り声で私は目が覚めた。
 気づいたときには数台のパトカーに取り囲まれていた。若い警官がパトカーの無線で本署と交信していた。事情を知らないスーパーの店長や近隣住民が困惑の表情で私をみている。
 ひとりの屈強な警官がノートとペンを持って近づいてきた。職務質問をするつりだろう。
「またあなたですか。何度目ですか」警官は面倒臭そうにノートを開いて前回の騒ぎを確認した。
 大学生アルバイトのたけしや親子連れはすでにどこかへ消えていた。クレナイデビルはどこだ。
「なんですか、それは。そんなもの最初からいやしないじゃないか。いい加減にしないと、入るところに入ってもらいますか。ねえ!」
「放せ無礼者! 救国戦士になにをする」
 あきれ顔の警官。
 赤い回転灯の明滅。
 騒ぎを見つめる人々の冷ややかな視線。
 傾いた電柱と弛んだ電線に切り取られたくすんだ空。
 いつもの風景。でも……もう慣れっこさ。
 だって、キッカマンなんだから。
「フフっ、マイッタね」

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キッカマン3〜みんなキッカマン「孤独は優れた精神の持ち主の運命である」

 その日の会場は出玉率で好評の某パチンコ店だった。
 大型駐車場のはずれ、店とは正反対の一郭に軽乗用を乗り付け、アスファルトの上を引き直された真っ白な駐車線の角に降り立った私は、野球のキャッチャーのようにして来店者のすべてと向かい合っていた。
 この国の人間は戦争はいけない、広島と長崎を忘れるな、戦争を知らない子供に語り継げなどと、自分だって戦争を知らないクセによく言えたもんだとつくづく思うのです。多くの日本人にとって、当時の日本軍が外地でどのような活動をしたか、また状況に置かれていたか、あまりにも知られていないではありませんか。戦争は昔の出来事ではなく、世界各地で今日も繰り広げられているのです。それを今日の繁栄だけ享受して後はシラネ、とする態度は如何なものでありましょう。やった事とやられた事の双方で《戦争》ですが、そのすべては人間の所業なのであります。その時代の行為者と血縁あるのが私たちである以上、自身の裡に眠る野獣性に自覚的であらねばならないとあまねく訴えるのが私の使命であります。当時、国内でのウラン調達は絶望的でありましたが、もし、仁科芳雄博士らの《二号研究》が成果を挙げていたら、実戦における人類初の原爆使用は日本だったかも知れません。……そこのおじさん。チョット待ってください。あなたもシラネ、ですか? 戦争を知らないおじさんたちにこそ私はあまねく問いかけているのですから。かつて全国を震撼させた浅間山荘事件をご記憶でしょう。連合赤軍による立てこもり事件です。それを契機に学生運動は一応の収束を見せはしたものの、世の教育ママゴンは政治活動にコミットする我が息子の姿勢を忌み嫌いました。そんな活動に関わって官憲に摘発された日にゃ大学を除籍された揚げ句、一流企業にも入れず、自ら進んで《負け組》になるようなものだというわけです。政治や社会の動向に関心を持ったところで仕方がないという、70年代に全盛を極めた教育ママゴンの在り様が後の日本を、つまり現在、社会の中核をなすおじさん達を決定付けたといえましょう。ちなみに家庭を顧みない国柄ゆえ当時のお父さんは家の中のことなど何もわかってやしません。現在のお父さん、つまり猛烈会社員だったおじさん達も、定年退職した日に老妻から離婚届を突きつけられ途方に暮れるに違いないのだ。結婚とは、男の権利を半分にして義務を二倍にする事なのであります。《人の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり社交を愛するからでなく、孤独が恐ろしいからである》そんなショウペンハウエル的作り笑いを浮かべるのが私たち日本男児の精々でありましょう──。
 大型商業施設の駐車場を中心に無許可で巡回するマイク・パフォーマンスは、行く先々でけだるい午後の空気を破った。暴力的な言葉の断片を我鳴り立てるのではなく、ときに挑発を織り交ぜ通行人の目耳を奪いながらも整然とした主張に声を張るスタイルは選挙演説のようだ。もし己が声帯をしびれさせた渾身のアジに生理的そぐわなさで反論する者があるなら、それは論者としての私の問題にとどまらず、肥大した脳の形に都市化された街とそこに住まう人間の相関性にこそ目を向けなければならないだろう。
 少子化と引き換えに好調なペットビジネス/セックスレス夫婦の増加と出会い系サイトの盛況/肥満解消で通うフィットネスクラブの傍ら飽和状態のモータリゼーション/家族分散型社会で捨て置かれた孤独な老人の生きがい探し/改良を重ねて造り出された愛玩用の人造犬と火を吐かないゴジラの対照/さらに、その光景を観察する私との対照等々、私のマイクはさらに熱を帯び、自ら理想とする街宣スタイルの提示にまで踏み込みながら、その演説はさわやかな舌のそよぎに乗せて7月の緑風に踊った。

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2009年6月17日 (水曜日)

キッカマン2〜共同幻想に生きる者へのディストラクション的アトラクション、それは街宣活動

 ここでの共同幻想とは実存主義哲学に傾倒する貴方の根源的「無」に根差したそれとは違い、都市生活者が抱える不安そのものである。実力行使はないまでもミステリーを得意とする小説家の常套手段である社会に対する発揚的手法に近似しながら、身体性を喪失した時代にあって逆に肉体を用いた表現形態としてのパフォーマンスを行使した街宣活動には市民の反発を招いても致し方なく、また誰を恨む筋でもない。ただ、それでも人を魅了して止まない拡声器の魔力とは何か──。
 あの日、私も見物しようと思いつつつい見損ねた右翼の街宣車。
 大型車ながら、高速道を軽自動車の料金で通過できる街宣車。
 その内部の様子で想像力を掻き立てて已まない街宣車。
 鶴田浩二や端やんのシブい歌唱ではなく伸びたテープがいけない街宣車。
 国道を時速20Kmで移動して後続に煽られる心配がなく車線を独り占めできる魔法の乗り物、それが街宣車。
 レコード会社の株価を支えるため量産されて、3か月で跡形もなく消え去る昨今のポップスに慣れ親しんだ世代に春日八郎は確かにきつい。また、彼らの歌声が特異な音量で再生される霹靂(へきれき)に顔をしかめる人がいるのも事実だ。だが、いまこそ私たちは往年の軍歌の調べに耳を傾けるべきではないか。軍歌。それは軍隊生活を歌った歌謡曲。がんばった。みんな苦しかった。だれもが大変な思いをした。この世に悪い軍隊はなく、ただ悪い指揮官が在るばかりだ。日本だけが「平和憲法」を死守したところで、中国をみろ。北朝鮮をみろ。イランをみろ。情報統制に耳と口を塞がれた国民が酸欠の金魚のように喘いでいるではないか。ところが現在の日本はどうだ。プロのアジテーターなら誰もが所有する「マイ・拡声器」を握りしめ、お天道様の許、今日も自慢の声帯を奮わせられたこの自由主義に万歳。
 ついに拡声器の怒号が開始された。この日の右翼氏は、市の外郭団体による間接的ながら公金の私的流用と、出来事に対する関係者の取り組みへの弱腰を糾弾することを主な目的とするアジテーションだった。
 右翼氏の街宣車のことを私は心の中で「ハウルの黒い城」と呼んでいた。ハウルがやってくると、人々は顔を背ける。忘れ物に気づいて引き返す人もいる。まるでハウルが透明人間にでもなったかのように、道行く人々はとたんに前しか見えなくなり、つい歩みを早めてしまうのだ。それはハウルの主義主張を敬遠するばかりが原因ではなく、あの、プレイヤーの品性に関わるほどのフルボリュームなラウドスピーカーからほとばしる大音響にあるのは明らかだ。
 貴方は最近、大きな声を出したことがあるだろうか。大きな声を出すのは意外と気持ちの良いもので、新陳代謝も活発になるし、発汗を促進することからダイエットにも有効だ。その意味で、街宣活動とはひとつの健康方と呼べるかも知れない。大きな声を出していると次第にトランス状態に陥り、できればこんなところから一刻も早く脱出したいとでもいった周囲のよそよそしい物腰がヒリヒリする声帯と相俟って、心地よく感じられてくるのである。殆どサディズムの境地である。
 街宣活動中のハウルは時速20Km〜30Kmの安全運転となる。私のクルマがその後ろにピッタリくっついて離れない。
「はいはい、街宣車は速く走れませんよ。車線を変更して抜かして下さいね」
 街宣車の《追っかけ》じみた私の奇行に対して、それ自体は物言わぬハウルの中から注意を受けた。事前にメールでコンタクトをとり、時間とコースを教えられていたが、ハウルの姿が見えないうちに予定の時間が過ぎてしまい、私は焦っていたのだ。というのも、前回の街宣で右翼氏の活動現場を見つけることができず、主要なコースを探し回った揚げ句に空振りで終わってしまい、とても悔しい思いをしていたのだ。
 空気を切り裂かんばかりのマイク・パフォーマンスが2クール目に突入する。
「市民のみなさん今日は。こちらはぁ、政治結社大倭総本部であります」
 なんといっても公道を移動する街頭宣伝車。予め先回りして話を少し聴き、街宣車が通りすぎるとまた先回りして少し聴くことを繰り返すのだが、演説が細切れになって非常にもどかしい。
 右翼氏は、市内の大型家電量販店の駐車場にハウルを乗り入れ、停車させた。今度は腰の据わった演説を展開させるつもりのようだ。
 休日の午後。楽しい親子連れと最新型のカラフルなマイカーで賑わう商業施設の活気に、大小2台の黒い車両が楔を打ち込んだ。
(さっきから変なヤツが街宣車の周りをうろちょろしてるナ)
 額から大粒の汗を流して必死で街宣車に追いすがり、強ばった笑顔で手を振る私。スモークガラスに遮られたハウルのなか、右翼氏には薄気味悪いものとして映ったのではないだろうか。
 

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2009年6月16日 (火曜日)

闘え! 僕らの民族戦士キッカマン

 上下水道、電気、ガス、電話回線等々が張り巡らされ、極度に都市化された住宅地の一郭、四つ足獣が鎖で繋がれている風景、四つ足獣はイヌであって犬ではない奇妙な状態に置かれていた。「家族の一員です」などと《我が子》を紹介する家族たちも、「犬の親です」と自らを名乗ることはこれまでなかった。
「ムツゴロウ」の愛称でお馴染みの作家畑正憲氏が創設した「動物王国」には犬が100匹以上も生活している。「動物王国」のテーマは《人間と動物の共存》にあるが、スタッフたちは動物に対し、ただ猫かわいがりしているだけではなかった。人間と犬の間には生物として越えられない溝があるのだ。
 ある日、スタッフの家族である小さな女の子が王国内の犬に顔面を噛まれて流血する事故が起きた。気性の荒いハスキーだった。スタッフはハスキーを捕まえ、身体を振り回して地面に叩き付けた。そして腹部に幾度も拳を叩き込んだ。ハスキーが悲鳴を上げた。絶命しても仕方がない、まさに鉄拳制裁だ。テレビカメラがその全てを追う。ドキュメンタリー番組だ。言葉で解らぬ者には、やって善い事と悪い事を身体で覚えさせるしかない。たとえ戯れついただけでも人間に怪我をさせる事は許されないとハスキーは思い知ったに違いない。これは残酷な躾けではない。人間社会では、未熟な子供が慣れないケンカで限度を知らず、相手に致命傷を負わせるケースがいくらでもある。犬はヒエラルキーに生きるからこそ上下関係を誤らせてはせてはならないのだ。つまり番組では、動物たちがムツゴロウさんの《子供代わり》ではなく、動物としてのムツゴロウさんが《親代わり》になる様子が見て取れる。
 檻に繋がれているから奇異なのではなく、現代に於ける人と犬の関係性こそが奇異なのだ──。
 曇天の午後、右翼氏の街宣活動が行われた。
 地域に密着した掲示板で偶然見つけた右翼氏だが、秩序立った社会にあって、その存在を異にする右翼氏のいつかの書き込みとキャラクターに興味を持った。私の田舎には右翼氏のように、毒を帯びた状態で自らを露出してタレント活動を展開する人物がほとんど見あたらず、それがこの田舎をより退屈にしている元凶のように思われるのだが、ところどころサビを吹いたマット・ブラックのタウンエースながら、街路に出撃する右翼氏が残像を引き摺りながら移動する、その張りつめた空気を掻き分ける航跡と、またあるときは漆黒のエネルギーが完全に黙殺される、そんな感じが好きだ。
 厳然たる声音で市議の不正を暴き、近隣諸国を糾弾し、領土の奪還を叫ぶ。
 この世に霊長として君臨し、自然社会を征服した観のある人間。あらゆる動植物の中で人間だけが人生の意味について考えを巡らせる。「生き甲斐」がなければ生きて行けない、自分を支えることができない、精神的に弱い生き物、人間。そんな人間どもの理想とする社会とはどのようなものだろう。ある者は大金を手にすることで充実するだろう。またある者はひとりでも多くの女を支配することに喜びを見出す。人生の多くの時間を「余生」として送らねばならない人間のなかには、自身の存在性を懸けてその主義主張をマイクに乗せ、社会への拡散を図る立場があっていいのだ。きっと、そうに違いない。
 自らの信念と義侠に駆られた言語を用いる右翼氏の主張は、街を構成する音響=ノイズの一部であり、住宅地の檻で繋がれたイヌの無意味な騒音とは隔して考えられるべきだ。
 人間社会の傍らにありながら右翼氏は、偽りの安寧に身をやつした市民社会に対し、どのように切り込んでいくのだろう。

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2009年6月14日 (日曜日)

六月、幻覚の都市〜2009年YOSAKOIソーラン祭り閉幕

 初夏のみぎり、札幌市で開催される「YOSAKOIソーラン祭り」も今年で十八回目を数えるそうだ。ほとんど関心はないが、今日が最終日らしい。北朝鮮のマスゲームみたいで、どうも好きになれない。長らく東京で独り暮らしをしていたが、もろもろの事情で郷里に還ってきたとき、すでに乱痴気騒ぎは始まっていて、大いに面食らったものだ。北海道のどこにあんな文化があったのだろう。今年もスポンサーを抱えたチームの衣装がキラキラまぶしかったが、実行委には、参加チームのレギュレーションをきっちりさせておかねば、ますます素人のお祭りとほど遠いものになっていく懸念を指摘しておく。自分がよさこいチームをプロデュースするなら「打倒! 神奈川県警」と背中に刺繍を入れることで別の匂いを持った若者たちもイベントに動員してみたい。だいたい路上で「ソイヤーソイヤー」って、彼らは「一世風靡セピア」にロイヤリティーを払っているのか。もっとも一世風靡は鳴子を持ってなかったけどね。原色の半被を着た若者たちの、天上高く突き上げた纏いのぶらぶらが勇ましい。後ろでは大漁旗が景気付けの弧を描くYOSAKOIソーラン祭り。イベントに入れ込む若者たちの「鯔背(いなせ)」なイメージを結晶するとああなるのだろう。「祭り」を謳いながら踊りを神に奉納するわけでもないのだから、「米よこせー!!」と絶叫しつつ鍬を振り回して国会に進撃するのはどうだろう。なにがなんでも愉しくあらねばならぬと云わんばかりの発想そのものに狂気を想う。新興サラ金のバックアップで秀吉の黄金の茶室に感化された鳶職みたいな格好をした連中のハツラツとした笑顔とタマシイの鼓動。
 YOSAKOIソーラン祭りといえば「さっぽろ雪まつり」と双璧をなす北海道のビッグイベントと思われる方もおいでだろう。だが地元北海道民の祭りに対する評価は大きく二分する。かつての北海道新聞にはYOSAKOIに対する批判的な記事が目についたが、「YOSAKOIソーラン北のふーどパーク」とやらの便乗企画をYOSAKOI組織委と共謀する手前、あまりキツイ記事も書けなくなってしまったようだ。
「今年は倒れるまで踊ります!!」
 単にケンカ自慢の街のゴロツキにしか見えない格好をしたB級タレントがTVCMで鼻息を荒くする。今年は出ないのか、大泉洋。
 テレビの祭り特番は解説者まで立てていたが、新興舞踏に対してワケ知り顔で解説する胡乱な男は何者だろう。「いまのは振りが大きくてイイですねぇ」。スキーのモーグル解説者並のインチキ臭さだ。明けても暮れても同じ事ばかりやってるくせに大きいもヘチマもありゃしない。二十年近くやってるとイベントに寄生していろんな奴が現れるものだ。
 衣装に赤と白をあしらったチームがいくつかあった。いっその事、チーム旗の代りに日の丸を振れば目立つこと請け合いだろう。その政治的背景はともかく、せめて運動会に於ける万国旗の欺瞞より誠実だ。
 フェイスペイントの障害者が車イスのまま踊っていた。それをみて人は「感動」を口にする。だがそれは「体が不自由なくせに頑張っているね」という、暗に相手を見下した視点での励ましなのである。同じ障害者がプロレスをやると「障害者になんて事をさせるのだ。不自由は見せ物ではないなどと、激しく抗議されます」と障害者プロレスの関係者に聞いた事がある。
 身体ではなく脳がそれを要求する快適と利便性を追及するライフスタイルを確立した社会で、身体よりも脳こそを活用し、脳内におけるより高度な情報処理を要する抽象的表現としての社会の「脳化」が進んだ事で身体性が喪失しつつある時代、否が応でもそのことを確認せずにおかれないのが「戦争」だ。この国の人間はそのことから目を背ける代りに突飛な衣装を着て、ときに「珍舞」と揶揄されるイベントに流す汗なら恥も外聞も無いらしい。だが障害者として、独りの社会人として、YOSAKOIを踊ろうがプロレスで投げ飛ばされようが、それは彼らの勝手である事は言うまでもない。
 ところで、YOSAKOI祭りの創始者といえば長谷川岳である。かつてYOSAKOI祭りは長谷川を揶揄して「長谷川祭り」「長谷川の集金装置」などと陰口を叩かれたものだが、出場チームのなかには彼と政治思想的に関係のないところで純粋に踊りを楽しんでいる人たちもいるだろう。当たり前だ。身体を動かすことは健康にいいからね。
 何にせよ、こうしたお祭りはちびっ子からお年寄まで、誰もが共同幻想に浸れることに意味があるわけだ。
 あたらしい祭り。
 毎年、爆破予告犯が必ず現れるYOSAKOIソーラン祭り。
 実際、平成12年開催の第9回大会では大通り公園で回収中のゴミ袋が爆発する事件が発生している。
 踊ることでアイデンティティを確認する青春と、同じく爆破予告する青春。
 北海道、六月。狂気のトランス・ダンスは止むことを知らず。

YOSAKOIソーラン祭り
http://ja.wikipedia.org/wiki/YOSAKOI%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%A5%AD%E3%82%8A
「YOSAKOIソーラン祭り」腐敗の源泉
http://www.bnn-s.com/news/series_cd10.html
長谷川岳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%B2%B3

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2009年6月 6日 (土曜日)

クルマで北海道一周 〜第二次失業旅行決行間近? ケンとメリー「愛と風のように」あのころ君は若かった。

 数年前、クルマで北海道一周旅行をした。
 北海道の沿岸は島の形に国道と道道が巡っており、それを時計と反対周りの一周を目論むヒマに飽かせた旅だった。もちろん意味はない。人間とは合理性を求める生き物のようでありながら、その行為には多くの無意味が潜んでいる。人生とはある目的に向かって突き進むのではなく、大いなる暇つぶしだとするのが自身の人生哲学。
 CDは一枚も持たなかった。ラジオから流れる歌謡曲も悪くはない。不意に流れる偶然性と意外性はかなり面白い。「意味」とは、それを求める者にとってはじめて意味をなす。
 三日目の晩だった。すでに日も暮れたので無理はせず、たまたま差し掛かった苫小牧の某公園でビバークすることに決めた。突発的に思い立った一時間後には出発していたので、予定も計画もありはしない。たまたまソールの固い靴を履いていたので、アクセルを踏み続けた右の踵が熱を帯びてジンジンするのをマッサージで労った。通りがかりの食料品店で調達した国産の安ウイスキーをラッパ飲みしながら、私はNHK-FMから流れるライブ演奏に耳を傾けていた。
 子供を対象とした拝金主義の末路ともいい得るコマーシャル歌謡にまみれた日常からの脱却者である私は、その音楽に聴き入っていた。その歌声を開高健風にいうならば「乾燥した湿地帯で輝く燃え盛るドライアイス」とでもなるだろうか、日本歌謡界の王道復古の予感に私は打ち震えていた。後で判ったが、それは小島麻由美の『セシルカットブルース』という曲だった。
 この旅で、いや「旅」というより精神の有り様を鑑みれば「流浪」こそ適切に思うが、その流浪の期間、私はコンビニのおにぎりをひたすら食べ続けていた。予算を安く抑えることもそうだが、なにより行く先々にコンビニが在るわけで、なるほどコイツを利用しない手はない。確かにコンビニ文化とは便利なものだ。コンビニだけはどんな辺境にも必ずあった。とにかく腹が減った時間に営業しているメリットは大きい。車の運転には脳を使う。脳といえどもタダでは動いてくれないのだから、エネルギー補給が必要となる。長時間の運転で目がかすんだ頃合いに緑と赤のダブルライン、トイレ付き。このときばかりは微糖でない缶コーヒーを選んだ。コンビニとはまるで、人間のガソリンスタンドではないか。
 どれほど辺鄙な町にも必ずあるのがコンビニであり、そして人間だ。どんな片田舎にも人は住んでいる。私は彼らと接触する事を極力避けた。それは自分が人間嫌いの引き籠りだからではなく、どんな田舎にも常識的な現代人がいる事実を目の当たりにしたくなかったからだ。日の出から日没まで走り続ける海岸線、島の外れの漁師町の若者は、誰も彼もが似たような格好をしていた。このネット時代、若い彼らは都会の流行り廃りに敏感だ。東京発の情報がメディアに乗って日本全国に発信される今日、独自の地域色は徐々にその地場性を失っていく。言葉のイントネーションを恥じる若者達であっても、アナウンサーを志望するのでなければ決しておかしくはないが、都会と生まれ育ったバックグラウンドを異としながら、ひたすら中央に憧れるその凡俗を嘆いたオホーツクライン。
 至る所に展開するコンビニ。おそらく日本国中そうだろうが、行く先々の町並みはコピーしたかのようにすべて同じ。赤い看板、青い看板、黄の看板、それらは全国展開するホームセンターであり、コンビニやガソリンスタンドであり、サラ金であり、更にはパチンコ店のネオンに止めを刺した。そうしたケバケバしい原色から一歩引いた辺りには、白い箱を並べたプレハブ群が旧市道を寸断する形で住宅街を形成しており、こうした光景は何処へいっても決まって同じだ。規格品のブロックを並べたような衣料品店、化粧品店、喫茶店、レコード店、書店等々。全国のどこにでもありがちな風景。それをクルマの窓から垣間みて、人ごとのフリで走り去る自分。自らを解放するはずだった小旅行で、今日という現実をしたたかに生きる当たり前の人間たちが当たり前のように見えてきた。そうして、どうしてジャンルとしての小説が衰退するのかも分かったような気がした。彼らは小説など必要としていないに違いない。なぜなら、小市民たる彼らが小説を生きているからだ。高度成長とともに日本の隅々が首都圏の箱庭と化したような、そんな国からは偉大なる“乞食写真家”の土門拳など、もう登場し得ないのだろうか。
 実はリストラの危機に直面している。今月半ばには答えが出るだろう。そのとき私は、再び旅に出るだろうか? 取りあえず、底の柔らかいスニーカーを用意しなければならないことだけ、分かっている。

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